卵の殻

embryo

「帝王の境界が曖昧なのでは、」


という疑惑が持ち上がった為、急遽それについて考えることになりました。


境界が曖昧とは、帝王。またしてもぎりぎりか?とお思いになるかもしれませんが、まあ聞けよ。




そも境界とは何か。Boundaryですね。要するに、帝王の人格を形成する外郭のことです。
人格と言ってもたいそうなものではありません。要は一貫性のことです。同一性でも可。


世の中には境界例なんていう病気もあるくらいだからね。人々の中には極端な相対主義をとる愛情豊かな人々を苦々しく思って邪魔者扱いする人がいるっていう事だね。



精神分析に端を発する心理学は、とりあえず全ての人々を「病気」扱いするのです。そして、治療という行為はその人の病気の症状が社会生活を営む上で障害になると判断された時に行われるわけです。




つまり、性格がはた迷惑だったり弱すぎて使えなかったりする人は修正するわけです。性格や性質を。それを行うかを判断するのは実際に起こった現象からです。





つまり、問題さえ起きなければ人は皆、「性格」という名の病気を抱えて生活しているということになりますね。





皆が病気を抱えているならお互い様だし、直す必要なんて無いじゃんとお思いになるでしょうか。でも、世の中にはマジョリティーというものが常に存在するのです。




帝王の経験によれば、それは各国で割合が違います。フランス人のような日本人もいれば、アメリカ人のようなヨルダン人もいるのです。


その割合の差こそが、各国のステレオ・タイプを形成しています。文化の差異ですね。


この、ステレオタイプとは違った形の病気を持った人は、何かしらの不利益を被ります。違いが目立つほど病気としての輪郭が目立つからです。



要はキャラが浮いてる人、目立つ人は「性格という名の病気」がマジョリティーに属する人に比べて目立つって言うことですね。




では、日本においてマジョリティーを形成する病気(性格)はなんでしょうか。



言うまでも無く「偏執」です。



何かに過度なこだわりを持つこと。しかしそれは言い換えれば、物事に道を見出し経験と言う形の事実を積み重ねていくことを善しとする、建設的な性格であるともいえます。




帝王の境界が曖昧と言うのは、つまりこだわりが薄いこと。もっと言えば事実を容易に無視して、物事をすぐに投げ出す。価値基準が曖昧で、非常識ということです。極端な相対主義は偽善的、あるいは「楽しければ良い」という軽薄な刹那主義にも受け取られます。


ひどい時は分裂症、躁うつ病のように言われることもあります。



しかし、帝国臣民の皆さんならお分かりでしょう。
それこそが精神世界であると。




多様な価値観を容認し、それらに調和を与えることこそが精神世界の性質なのです。
精神世界は「何でもあり」を矛盾無く行える神聖な場所なのです。






精神世界において境界と言うものはいくつもの要素が交じり合うことなくグラデーションを持った線を描いているのです。コーヒーとクリープ、あるいは虹の様に。虹の色の数を数えることは帝王にとって無意味なことです。



「偏執」という病気(性格)を持った人にはそれは、不定形な収まりの悪い気持ち悪さを持っています。なぜなら、彼等は物事を点と線で構成されたものとしてとらえているからです。


しかし、逆に言えばそれは、非常に建設的な美しい塔のような世界を形成します。帝王はそれをいとおしく思うのです。




ですから、このように考えます。偏執という名のソリッドな境界を持つ人々は卵の殻のような境界を持っているのです。しかし、全ての生き物が殻を纏って生まれてくるわけではありません。


中には、母体と混じりあった柔らかな卵殻を持った生き物もいるのです。


そして、帝王の境界は世界と交じり合ったグラデーションを持った境界なのです。



曖昧です。元から。



しかし、曖昧で無いと言えば言えるのです。そもそも線の種類が違うのです。


鶏のような卵がいいのか哺乳類のような卵殻が良いのか、それを一言で言うことはできません。しかし、そもそも種類が違うのだと言う解釈は成り立ちます。


一つの世界観で物事を語ることは重要なことです。しかし帝王はそれを複数容認したいのです。矛盾が無い限りは同時並立させるべきものなのです。世の中は何でもありなのです。




まあ、一言で言えばいじめるなってことだね。